ロシア・ウクライナ戦争①戦争への道―― 1991年ソ連崩壊から2022年開戦まで

戦争・戦史

2022年2月24日、ロシア軍はウクライナへの全面侵攻を開始した。
これにより、ロシア・ウクライナ戦争の火蓋が切られた。

この出来事は第二次世界大戦後のヨーロッパで最大規模の戦争となり、世界経済やエネルギー市場、安全保障政策を大きく変える転機となった。

しかし、この戦争は決して突然始まったものではない。

その背景にはその背景には、ソ連崩壊後の両国関係、ウクライナの外交路線、NATO東方拡大、そして2014年から続く武力紛争がある。

本記事では「戦争前夜」をテーマとする。

本記事では、1991年のウクライナ独立から2022年の全面侵攻直前までを時系列で整理し、両国がなぜ戦争への道を歩んだのかを振り返る。


解説サマリー

項目 内容
対象期間 1991年12月~2022年2月
主な舞台 ウクライナ、ロシア、クリミア半島、ドネツク州、ルハンスク州
出発点 ソ連崩壊とウクライナの独立
主な対立軸 ウクライナの主権と外交路線、NATO東方拡大、ロシアの安全保障認識
主な転換点 オレンジ革命、ユーロマイダン、クリミア併合、ドンバス紛争
停戦の枠組み ミンスク合意Ⅰ・Ⅱ
人的被害 ドンバス紛争では2014~2021年に約1万3,000~1万4,000人が死亡
全面侵攻直前の状況 停戦合意が十分に履行されず、ロシア軍がウクライナ国境周辺へ大規模集結
今回の記事テーマ 両国が約30年をかけて全面戦争へ近づいた過程を整理する

戦争前夜のロシアとウクライナ

まずは、ロシアウクライナ両国について解説する。

戦争直前の2021年時点で、両国の国力には圧倒的な差が存在していた。

ロシアは世界有数の軍事大国であり、核兵器保有国でもある。

一方のウクライナは欧州有数の農業国であるものの、経済規模・軍事力ともロシアを大きく下回っていた。

(引用元:ウクライナの地方行政区画 – Wikipedia)

ロシア・ウクライナ比較(2021年頃)

項目 ロシア ウクライナ
面積 約1,709万km² 約60万km²
人口 約1億4,600万人 約4,100万人
GDP(名目) 約1.78兆ドル 約2,000億ドル
軍事費 約659億ドル 約59億ドル
現役兵力 約90万人 約20万人
核兵器 約6,000発 保有なし
主要産業 石油・天然ガス・鉱業・軍需産業 小麦・トウモロコシ・鉄鋼・IT

数字だけを見れば、ウクライナの圧倒的劣位は明らかである。

次章からは、開戦までの流れを解説する。

ソ連崩壊とウクライナ独立

1922年に成立したソ連は、15の共和国から構成されていた連邦国家である。

その中でもロシア共和国とウクライナ共和国は、人口・経済・工業力ともに中核を担う存在だった。

そして、1991年12月26日。
世界最大の社会主義国家であったソビエト連邦は崩壊する。

ソ連崩壊後、ウクライナは独立国家となった。

この独立は住民投票でも圧倒的多数の支持を得た。
1991年12月1日に実施された国民投票では、有権者の約84%が投票し、そのうち約90%が独立に賛成した。

この結果を受け、ロシアを含む国際社会はウクライナの独立を承認した。

しかし、独立によって生じた問題が一つあった。

それが核兵器である。


転がり込んだ「核保有国」の座

ソ連崩壊時、ウクライナ国内には多数の旧ソ連の核兵器が配備されていた。

その数は、

  • 戦略核弾頭:約1,900発
  • 戦術核兵器:約2,500発

以上にのぼる。

突然、ウクライナはアメリカ・ロシアに次ぐ世界第3位の核保有国となった。

突如生まれた核保有国をどう扱うか、それが世界的な課題となった。


ブダペスト覚書

1994年。

アメリカ、イギリス、ロシア、そしてウクライナは「ブダペスト覚書(Budapest Memorandum)」に署名した。

内容は主に2点。

  • ウクライナは国内の核兵器をロシアへ移管し、核拡散防止条約(NPT)に加盟する。
  • その代わり、ロシア・アメリカ・イギリスはウクライナの独立・主権・国境を尊重し、武力による威嚇や行使を控える

ウクライナは数千発の核兵器を放棄し、安全保障上の保証を受ける道を選んだのである。

この覚書は後年、2014年のクリミア併合や2022年の全面侵攻をめぐり、「安全の保証は十分だったのか」という議論の中心となった。

しかしながらあのとき核兵器を放棄しなければウクライナは攻撃されなかった」という言説は誤りである。
まず、核兵器の発射指揮系統や認証コードはモスクワが管理しており、ウクライナが自由に運用できる状態ではなかった
さらには、当時のウクライナの国力で莫大な維持管理コストを賄うのは不可能であった。
ウクライナは核兵器を放棄する道しかなかったのだ。


ロシアとの関係

1990年代のロシアは、ソ連崩壊後の混乱に直面していた。

経済は急激な市場化で混乱し、GDPは大幅に縮小、インフレは深刻化した。

一方のウクライナも同様に厳しい経済状況に置かれていた。

そのため、独立直後の両国は対立よりも協調を重視していた。

しかし、その関係を徐々に変えていく出来事が、西側諸国によるNATOの東方拡大である。

(旧ソ連およびロシアの1860年から2022年までの1人当たりGDPグラフ 引用元:DavidMCEddy – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=149543417による)


NATO東方拡大とロシアの懸念

冷戦終結後、ソ連の軍事同盟であったワルシャワ条約機構は解体された。

一方、西側の軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)は存続し、その後加盟国を拡大していく。

1999年にはポーランド、チェコ、ハンガリーが加盟。

2004年にはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)やルーマニア、ブルガリアなど7か国が加盟した。

これにより、NATOはロシア国境へ急速に接近することとなった。

西側諸国は、加盟は各国の主権に基づく自由な選択であり、防衛を目的とした同盟であると説明した。

一方、ロシア側は、自国の安全保障環境が悪化していると強く反発した。

ロシア政府は、歴史上たびたび西方から侵攻を受けてきた経験を踏まえ、「NATOがさらにウクライナやジョージアまで拡大すれば、自国の安全保障に重大な影響を及ぼす」と主張した。

2007年のプーチンによるミュンヘン安全保障会議での演説では、一極支配への批判とともに、NATO拡大への強い懸念が表明された。

そして2008年、NATO首脳会議(ブカレスト・サミット)では、「ウクライナとジョージアはいずれNATO加盟国となる」との方針が示された。
ロシアは、この表現を自国への戦略的圧力がさらに強まるシグナルと受け止めた。

一方で、ウクライナ国内でもNATO加盟への支持は地域や時期によって大きく分かれていた。
西部では支持が比較的高く、東部や南部では慎重・反対の声も根強かった
ウクライナは欧州志向とロシアとの歴史的・経済的結び付きの間で揺れ動く国家であり、その国内事情も対立を複雑にしていった。

このように、NATOの東方拡大は、西側から見れば加盟希望国の主権に基づく選択であり、ロシアから見れば自国周辺の安全保障環境を大きく変える動きであった。双方の認識の隔たりは、以後の関係悪化の重要な背景となっていく。

オレンジ革命――「親ロシア」と「親欧州」

2004年、ウクライナ大統領選挙は、後のロシア・ウクライナ関係を大きく左右する転換点となった。

当時の主要候補は2人である。

  • ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ(親ロシア路線)
  • ヴィクトル・ユシチェンコ(親EU・親欧米路線)

(ヴィクトル・ヤヌコーヴィチの画像。 引用元:President.gov.ua, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=116902848による)

(ヴィクトル・ユシチェンコの画像。 引用元:Zoda.gov.ua, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=113728391による)

この選挙は単なる政権交代ではなかった。

ウクライナという国家が、

「ロシアと歩むのか、それとも欧州へ向かうのか」

を決める国家的選択でもあった。

第一次投票では過半数を得る候補がおらず、決選投票が実施された。

しかし決選投票後、国際監視団や欧州各国から大規模な選挙不正が指摘される。

開票結果ではヤヌコーヴィチ氏(親ロシア)が勝利したものの、多数の有権者が結果を受け入れなかった。

首都キーウの独立広場には数十万人規模の市民が集まり、再選挙を求める抗議活動を開始する。

参加者が身に着けていた色から、この一連の運動は「オレンジ革命」と呼ばれる。

最終的にウクライナ最高裁判所は決選投票を無効と判断し、再投票を命じた。

やり直し選挙ではユシチェンコ氏(親ヨーロッパ)が勝利し、新大統領へ就任する。

これは旧ソ連圏で民主化運動が成功した代表例として欧米諸国から歓迎された。

一方、ロシア政府は西側諸国がウクライナ国内政治へ強い影響を及ぼしていると受け止め、以後の警戒感を強めることとなる。

(オレンジ革命中のキエフ独立広場。 引用元:オリジナル版はGutsul – Джерело: http://maidan.org.ua/, даний сайт розповсюджується згідно ліцензії GNU для документаціїSource: http://maidan.org.ua/, information from this site can be distributed under GNU license for documentationuk.wikipedia からコモンズに移動されました。;, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=459896による)


オレンジ革命の結果

項目 結果
勝者 ヴィクトル・ユシチェンコ
外交方針 EU・NATO接近
ロシアの反応 西側の影響力拡大への警戒

この革命によって国内が一枚岩になったわけではない。

西部では欧州志向が強かった一方、東部や南部ではロシアとの経済・文化的結び付きが深く、親ロシア志向も根強く残っていた。

この地域差は、その後の政治的対立の土台となっていく。

ユーロマイダン革命――国家を二分したEU協定問題

2010年、大統領選挙で再びヤヌコーヴィチ氏が当選し、再び親ロシア路線の政権が誕生した。
当初、同政権はEUとの連合協定締結を進めていた。
しかし2013年11月、政府は署名直前になって協定締結を延期すると発表する。

この決定を受け、キーウの独立広場では学生を中心とした抗議活動が始まる。

運動は「ユーロマイダン」と呼ばれた。

当初は平和的なデモであったが、警察による強制排除を契機に参加者は急増。
数万人だったデモは、やがて数十万人規模へ拡大した。

2014年2月には治安部隊とデモ隊が衝突し、多数の死傷者が発生した。
この一連の衝突では100人を超える犠牲者が出たとされている。

2014年2月21日にはEU各国外相の仲介で政権側と野党側が合意文書に署名した。

が、翌日にはヤヌコーヴィチ大統領が首都を離れ、その後ロシアへ脱出。

ウクライナ議会は大統領の職務停止を決議し、新政権発足へ向けた手続きを開始した。

ここで評価は大きく分かれる。

ウクライナおよび多くの欧米諸国は、市民運動の結果として政権交代が起きたと位置付けている。

一方、ロシア政府は、一連の出来事を「憲法に反するクーデター」であったと主張している。

この認識の違いは、その後のクリミア問題やドンバス紛争を理解する上でも重要であるといえる。

(2014年、ユーロマイダンでのキエフ。 引用元:Ввласенко – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=84108565による)


クリミア併合とドンバス紛争

ヤヌコーヴィチ政権崩壊直後、情勢は急速に悪化した。

2014年2月末、親欧米派の暫定政権が発足したことに一部のクリミア住民が抗議し、親政権派と衝突。所属不明の武装集団が自治議会を制圧し、クリミア自治共和国は「クリミア共和国」に移行するとの宣言がなされた。
その後、武装集団はロシア軍であることが判明。

クリミア議会はロシアへの併合を問う住民投票を実施し「9割以上の賛成票が投じられた」。

ロシア政府はこの住民投票を根拠としてクリミアを編入した。

しかし、ウクライナ政府および国連総会の多数加盟国は、この併合を承認していない。国連総会決議68/262では、ウクライナの領土保全が支持された。

クリミア半島での武装兵。

(シンフェローポリ国際空港での徽章が無い武装兵。 引用元:Elizabeth Arrott / VOA – Voice of America website http://www.voanews.com/content/us-britain-no-zero-sum-game-for-ukraine/1859367.html > .jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31421724による)

同じ頃、ウクライナ東部のドネツク州・ルハンスク州でも武装勢力が行政施設を占拠し、自称「人民共和国」の樹立を宣言した。

日本で例えると、北海道が謎の武装勢力に占拠後、併合され、さらに東北地方が独立を宣言するようなものだろうか。(一概には例えられないが)

これに対しウクライナ政府は軍事作戦を開始。
これがドンバス紛争の始まりである。

(赤:ルハンスク州、青:ドネツク州、緑:クリミア。 引用元:ウクライナの地方行政区画 – Wikipedia)

ロシアは自国軍による直接介入を否定しつつ、親ロシア勢力への政治的・人道的支援を表明した。非正規軍、正規ロシア軍、従来の軍事支援を組み合わせたハイブリッド戦術を採った。
しかし、2014年8月頃から、ウクライナが親ロシア派勢力の支配領域を圧迫するにつれて、ロシアはハイブリッド戦略を放棄し、従来型の侵攻を行った。

戦闘は激化し、2014年7月にはマレーシア航空MH17便が撃墜。
乗員乗客298人全員が死亡した。

国際合同捜査チーム(JIT)は、ロシア軍第53対空ミサイル旅団由来の「ブーク」ミサイルが使用されたとの結論を公表している。ロシア側はこれに異議を唱えている。

国連の推計によるとドンバス紛争では2014年から2021年までに約13,000~14,000人が死亡したとされる。

(2016年、反政府側が占拠したドネツク。 引用元:Andrew Butko, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=48690534による)

ドンバス紛争(2014~2021年)

項目 概要
主戦場 ドネツク州・ルハンスク州
死者数 約13,000~14,000人
避難民 数百万人規模
国際監視 OSCE特別監視団(SMM)

ミンスク合意――実現しない停戦

戦闘が拡大する中、2014年9月、ウクライナ・ロシア・OSCEなどによる三者連絡グループはミンスク議定書(ミンスクI)に署名した。

2015年2月にはドイツ・フランスも関与する協議を経て、ミンスクII(履行措置パッケージ)が合意された。

合意には、

  • 即時停戦
  • 重火器の撤去
  • OSCEによる監視
  • 捕虜交換
  • 地方自治に関する政治的措置
  • 国境管理の回復

などが盛り込まれた。

しかし、その実施順序や解釈を巡って対立が続く。

ウクライナは「まず安全保障(停戦・国境管理)が必要」と主張。
対してロシアは「政治改革や特別地位の付与も合意事項である」と主張した。
双方は相手が履行義務を果たしていないと非難し続け、停戦は断続的に破られた。

OSCE特別監視団は停戦違反や重火器の使用を継続的に報告したものの、戦闘を完全に止めることはできなかった。

結果として、ドンバス地域は「凍結紛争」に近い状態となる。

大規模な全面戦争ではないものの、散発的な砲撃や小競り合いが続き、緊張は解消されなかった。

この「終わらない紛争」が、2021年以降のロシア軍の大規模集結、そして2022年2月の全面侵攻へとつながる土台となっていく。

ウクライナカラーのエッフェル塔、炎上するバス、炎を上げる化学工場、クリミアからウクライナへ向かうロシアの車列、火炎瓶を作るウクライナの民間人。
ロシア・ウクライナ戦争の代表的な画像。

(引用元:Montage created by me, JoleBruh – File:Eiffel Tower with the colors of the Ukrainian flag (51910907690).jpg – Pierre Blaché (CC0 1.0)File:Reporter’s Notebook – Confusion, Chaos as Russia Invades Ukraine 02.jpg – Yan Boechat/VOA (Public Domain)File:Storage building in Sumy after shelling during Russian invasion, 18 March 2022 (01).jpg – State Emergency Service of Ukraine (CC-BY 4.0)File:Russian military move from Crimea to Ukraine.jpg – Сергей Васильевич Дейнеко (CC-BY 4.0)File:Reporter’s Notebook – Thriving Kyiv Becomes Battle Zone, Almost Overnight 03.jpg – Yan Boechat/VOA (Public Domain), CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=115745590による)

1991年~2022年までの時系列

年月 出来事 概要・影響
1991年12月 ソビエト連邦崩壊 ウクライナが独立。ロシアとの新たな二国間関係が始まる。
1994年12月 ブダペスト覚書 ウクライナは世界第3位規模の核兵器を放棄し、ロシア・米国・英国はウクライナの主権と国境を尊重することを確認した。
1999年 NATO東方拡大(第1次) ポーランド・チェコ・ハンガリーが加盟。ロシアは安全保障上の懸念を強め始める。
2004年 NATO第2次拡大・オレンジ革命 バルト三国など7か国が加盟。同年、ウクライナでは選挙不正への抗議からオレンジ革命が発生し、親欧米政権が誕生した。
2008年4月 NATOブカレスト首脳会議 ウクライナとジョージアはいずれNATO加盟国になるとの方針が示され、ロシアは強く反発した。
2010年 ヤヌコーヴィチ政権発足 親ロシア路線へ転換する。
2013年11月 ユーロマイダン開始 EU連合協定署名延期を受け、大規模な抗議デモが発生した。
2014年2月 政権崩壊 ヤヌコーヴィチ大統領が首都を離れ、新政権が発足。ロシアはクーデターと主張した。
2014年3月 クリミア併合 ロシアは住民投票を経て編入を宣言。ウクライナと多くの国はこれを認めていない。
2014年4月 ドンバス紛争勃発 東部で親ロシア武装勢力とウクライナ軍との戦闘が始まる。
2014年9月 ミンスク合意Ⅰ 停戦が合意されるも戦闘は継続。
2015年2月 ミンスク合意Ⅱ 停戦・重火器撤去・自治問題などを取り決めたが、履行は進まなかった。
2021年 ロシア軍が国境付近へ集結 10万人を超える兵力が集結し、欧米各国は全面侵攻の可能性を警告した。
2022年2月 戦争前夜 外交交渉は決裂し、欧州最大の戦争へ向けた最後のカウントダウンが始まる。

次回予告

次回では、ロシア軍の国境集結から外交交渉の決裂、そして2022年2月24日の全面侵攻開始までを時系列順に詳しく解説する。

参考資料・外部リンク

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