ロシア・ウクライナ戦争⑨バフムート攻防戦――「勝利」とその代償

戦争・戦史

ロシア・ウクライナ戦争が始まって約9ヶ月目。
2022年11月11日、ウクライナはヘルソン市を奪還。

春から秋にかけて大規模な反攻は続き、ロシア軍が唯一占領していた州都を取り戻した。

しかし、その劇的な進撃と戦線のダイナミックな変化は続かない。

2022年8月頃、東部ドネツク州の都市バフムートを目標にロシア・ウクライナ両軍が再び激突しようとしていた。

なぜ一都市が、大規模な戦いの舞台となったのか。

膠着した戦線と閉塞した都市の中での、長い消耗戦を解説する。


バフムート攻防戦サマリー

項目 内容
戦争日数 約160~451日目
主な戦闘期間 2022年8月頃~2023年5月20日
主戦場 ドネツク州バフムート、ソレダール方面
地理的重要性 幹線道路が交差する交通拠点
ロシア側の主力 民間軍事会社ワグネル、ロシア正規軍、空挺部隊、親ロシア派部隊など
ウクライナ側の主力 陸軍機械化旅団、空中強襲部隊、領土防衛隊、国家親衛隊、砲兵部隊など
ロシア側の目的 バフムートを攻略し、クラマトルスク・スラビャンスク方面への攻勢拠点を確保する
ウクライナ側の目的 防御に有利な市街地を利用し、ロシア軍とワグネルの兵力・弾薬を消耗させる
ワグネルの推定兵力 2023年初頭のウクライナ戦線で約5万人規模との米英政府推計
ロシア側の占領宣言 2023年5月20日、プリゴジンがバフムートの完全制圧を宣言
ロシア側の損失推計 米政府は2022年12月以降のバフムート方面で、ロシア側に10万人以上の死傷者が出たと推定
ワグネル側の損失 プリゴジンは後に、バフムートでワグネル兵約2万人が死亡したと主張
戦略的結果 ロシア側が都市を占領した一方、部隊と弾薬を大量に消耗し、その後の大規模進撃には直結しなかった
政治的影響 戦果と弾薬供給をめぐり、プリゴジンとショイグ国防相・ゲラシモフ参謀総長の対立が表面化
今回の記事テーマ ロシア側がバフムートを占領するために何を投入し、その「勝利」がなぜ新たな危機を生んだのかを整理する


バフムートとはどんな街だったのか

(バフムート周辺のイメージ画像。)

バフムートは、ウクライナ東部ドネツク州北東部に位置する地方都市である。
ソビエト時代から製塩業で知られ、開戦前には約7万1,000人が暮らしていた。

軍事的に重要視された理由は、都市の規模ではなく交通の結節点だったことにある。

市内では複数の幹線道路が交差しており、西へ進めばクラマトルスク、北西にはスラビャンスク、北東にはソレダール、南にはホルリウカが位置する。これらはいずれもドンバス戦線において重要な都市であり、バフムートはその中心に位置していた。

ロシア軍にとっては、バフムートを占領することでクラマトルスク・スラビャンスク方面への攻勢を有利に進めることが期待された。一方、ウクライナ軍にとっては、この都市を保持することでドネツク州北部への進撃を食い止める「防波堤」となる。

バフムート基本データ

項目内容
所在地ドネツク州
開戦前人口約71,000人
面積約41km²
ドネツク市まで約70km
クラマトルスクまで約40km
ソレダールまで約10km
主な産業製塩・ワイン・機械工業

「戦略的価値」は専門家でも意見が分かれる

興味深いことに、バフムートの軍事的価値については専門家の間でも見解が一致していない。

米シンクタンクCSISや英国RUSIでは、「都市そのものが戦争全体を左右するほどの戦略的重要性を持つわけではない」とする分析が多い。

ISW(戦争研究所)も、「バフムートの占領によってロシア軍が直ちにクラマトルスクやスラビャンスクを攻略できるわけではない」と評価している。

つまり、2022年末以降のバフムートは、「軍事的価値」以上に政治的・心理的価値が大きくなっていたのである。

ハルキウ州からの敗走、ヘルソン撤退という二つの大敗北を経験したロシアにとって、「どこかで勝利を示すこと」が必要だった。
その象徴として選ばれた都市がバフムートだった。


ワグネルとは何者だったのか

バフムート攻防戦を語る上で欠かせない存在が、民間軍事会社ワグネルである。

開戦当初、ロシア軍の主力は陸軍・空挺軍・海軍歩兵だった。しかし2022年夏以降、正規軍は大きな損害を受け、兵力不足が深刻化する。そこで前面に押し出されたのがワグネルだった。

民間軍事会社(PMC)は、本来であれば企業や政府と契約し、警備や軍事訓練を行う民間組織を指す。しかしワグネルは通常のPMCとは異なり、シリア、リビア、中央アフリカ共和国、マリなどでロシア政府の外交・軍事政策を支える「非公式部隊」として活動してきた。

形式上は民間企業でありながら、実質的にはロシア軍と密接に連携し、戦闘を担っていたのである。


エフゲニー・プリゴジンの台頭

ワグネルを率いたのがエフゲニー・プリゴジンだ。

彼はもともと飲食業で成功した実業家で、クレムリン向けのケータリング事業を請け負っていたことから「プーチンの料理人」とも呼ばれていた。

しかしウクライナ戦争では前線へ頻繁に姿を現し、自ら動画を配信してロシア国防省を批判するなど、従来の軍事指導者とは異なる存在感を示すようになる。

2022年後半には、ロシア国内でも「最も前線を理解している指揮官」と評価する支持者が現れる一方、軍との対立も徐々に深まっていった。

プリゴジン氏。ロシア・ウクライナ戦争のバフムート攻防戦において重要な人物。

(ワグネルのトップ、プリゴジン。 引用元ロシアのワグナー上司、ウクライナでのバフムト撤退を脅迫 |APニュース)


刑務所から兵士を募集

ワグネル最大の特徴は、その兵力補充方法だった。

2022年夏から秋にかけて、プリゴジンはロシア各地の刑務所を訪れ、受刑者に対して「6か月前線で戦えば恩赦を与える」と勧誘した。

米国や英国の分析では、約4万〜5万人規模の受刑者がワグネルへ加わったと推定されている。ピーク時のワグネル兵力は約5万人に達し、その約8割を受刑者出身者が占めていたとされる。

バフムートでは彼らが「第一波」として突撃し、その後に熟練兵が続くという戦術が採られたと分析されている。

ワグネル兵力推移(推定)

時期推定兵力備考
2022年夏約8,000人主に契約兵
2022年秋約20,000人刑務所募集開始
2023年初頭約45,000〜50,000人約8割が受刑者出身と推定

ロシア軍の「波状攻撃」と肉挽機

2022年10月頃から、バフムート周辺では従来のロシア軍とは異なる戦い方が目立つようになる。

開戦初期のロシア軍は、大隊戦術群(BTG)を中心とした機甲部隊で突破を図る「機動戦」を得意としていた。しかし、キーウ攻略失敗、ハルキウ反攻、ヘルソン撤退によって多くの精鋭部隊や装甲車両を失い、大規模な機甲突破を繰り返す能力は大きく低下していた。

そこで前面に立ったのがワグネルだった。

彼らが採用したのは、小規模部隊を何度も前進させる「波状攻撃(Human Wave Assault)」である。

6〜10人程度の分隊が夜間や明け方に前進し、まずウクライナ軍の射撃位置を確認。最初の部隊が撃破されても、その情報をもとに後続部隊や砲兵が攻撃を加えるという方法だった。

戦術的には非常に単純である。しかし、十分な兵員を確保できる限り、防御側に休息を与えず、絶え間ない戦闘を強いる効果があった。

(2023年2月、バフムートの画像。 引用元ウクライナ:ドローン映像がバフムトの破壊の規模を示す|APニュース)


メートル単位の戦い

バフムート攻防戦では、ニュースで「ロシア軍前進」と報じられても、その距離は数百メートル程度であることが珍しくなかった。

ある建物を奪取しても、翌日には再び奪い返される。一本の道路や一つの交差点を巡って数週間戦闘が続く。

これは、2022年前半のように数十キロ単位で戦線が動く戦争とはまったく異なる様相だった。

戦線はほとんど変化しない一方、兵士だけが消耗していく。このことから、西側メディアではバフムートを「肉挽き機(Meat Grinder)」と呼ぶようになった。

(バフムート近郊の医療施設で治療を受けるウクライナ兵。 引用元ロシア私兵の指揮官ワグナーは、バフムトの戦いで2万人以上の兵士が戦死したと述べています。APニュース)


ソレダール陥落――戦局が動き始める

2023年1月、ロシア軍はバフムート北東約10kmに位置するソレダールへの攻撃を本格化。

ソレダールは人口約1万人の小都市だが、世界有数の岩塩坑で知られ、その地下には総延長数百キロともいわれる坑道網が存在していた。

この地下施設そのものが軍事拠点として利用されたわけではないが、複雑な地形は防御戦に有利であり、周辺道路を監視する位置にもあった。

2023年1月中旬、ワグネルはソレダールを制圧したと発表。
その後ウクライナ側も撤退を認めた。

これはバフムート攻防戦におけるロシア側の数少ない明確な戦果であった。
また、プリゴジンは「ソレダールはワグネルだけで奪取した」と主張して存在感を一気に高めた。


ソレダール基本データ

項目内容
開戦前人口約10,000人
バフムートまで約10km
主な産業岩塩採掘
制圧時期2023年1月

撤退しないという選択と計算

2023年初頭になると、西側メディアでは「ウクライナ軍はバフムートから撤退すべきではないか」という議論が活発になった。

戦況だけを見れば、その意見には一定の根拠があった。

ロシア軍は北東のソレダールを占領し、市街地の東側へ徐々に浸透していた。補給路にも砲撃が集中し、防衛側にとって状況は日に日に厳しくなっていた。

ではなぜウクライナ軍は撤退を選ばなかったのか。

その理由は、ウクライナ軍の目的が「街を守ること」ではなく、「ロシア軍を消耗させること」にあったからだ。

2022年秋以降、ロシア軍は部分動員によって約30万人の予備役を招集したが、新兵の多くは十分な訓練を受けていない。同様にワグネルも刑務所から集めた大量の受刑者を突撃部隊として投入し続けていた。

ウクライナ軍は、この兵力運用を逆手に取り、「防御戦で時間を稼ぎながら攻撃側の人的損失を積み上げる」という戦略を選択したのである。

短期間で都市を奪われるよりも、敵により大きな損害を与えることを優先した判断だった。

(2022年3月、携帯式対空ミサイルを持つウクライナ兵。 引用元ウクライナはロシアの猛攻にもかかわらずバフムトを守ると誓う |APニュース)


消耗戦の計算

もちろん、防御側も無傷ではいられない。

ウクライナ軍も熟練兵を失い、砲弾や装備を消耗していた。

しかし、当時のウクライナには一つの希望があった。

それが西側諸国から供与予定だった新型兵器である。

2023年1月以降、各国は相次いで主力戦車の供与を決定した。

  • ドイツ:レオパルト2
  • イギリス:チャレンジャー2
  • アメリカ:M1エイブラムス(後に供与開始)

これらの装備を受け取り、乗員訓練を終えるには数か月を要する。

ウクライナ軍にとって最も重要だったのは、「今すぐ勝つこと」ではなく、「春から夏に予定される反攻作戦まで戦力を維持する時間を稼ぐこと」だった。

バフムートは、その時間を生み出すための戦場でもあったのである。

(レオパルト2A4の画像。 引用元:Ministerstwo Obrony Narodowej – http://mon.gov.pl/pl/galeria/1643, Attribution, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24762782による)


手に入れたものとその代償

2023年5月20日午後0時ごろ、プリゴジンはバフムート市内で動画を公開し、「正午をもってバフムートを完全制圧した」と宣言した。

ロシア国内では、この映像は「ついに勝利を手にした英雄」として大々的に報じられた。

しかし、その実態はロシア側が期待したものとは程遠かった。

バフムートは戦略上、一定の価値を持つ都市である。

バフムートから西へ進めば、クラマトルスクやスラビャンスクへつながる道路網が存在する。また、鉄道や幹線道路の結節点として、ドネツク州北部の兵站拠点でもあった。

しかし、ロシア軍が2023年5月に占領した時点で、その価値の多くは失われていた。

街の建物の大部分は破壊され、産業基盤も消滅していた。道路には無数のクレーターが残り、上下水道や電力施設もほぼ壊滅状態だった。

ロシア軍が手に入れたのは、人口約7万人の都市ではない。

瓦礫の山である。

さらに問題だったのは、ロシア軍自身が深刻な消耗状態に陥っていたことだった。


10万人を超える損害

2023年5月、米国家安全保障会議(NSC)は、バフムート周辺でのロシア側死傷者が10万人を超えたとの分析を公表した。

その内訳は、

  • 戦死:約2万人
  • 負傷:約8万人以上

と推定された。

さらに米政府は、戦死者の約半数がワグネル兵士だった可能性を指摘している。

人口約7万人の地方都市を占領するために、10万人規模の死傷者を出した可能性がある。

これは第二次世界大戦後の欧州では極めて異例の損耗率だった。

項目ロシア側
死傷者約10万人超
戦死約2万人
負傷約8万人以上
戦死したワグネル兵士約1万人規模との推計

「俺たちが勝たせた」

さらに奇妙だったのは、この「勝利」の主役がロシア正規軍ではなかったことだ。

バフムート攻略の中心になったのはワグネルである。

プリゴジンは、自分たちが払った犠牲と比べて、ロシア国防省が十分な支援を行っていないと考えるようになる。

プリゴジンはバフムート攻防戦の間、異例ともいえるほど積極的に前線へ姿を現した。

軍服姿で塹壕を訪れ、自ら動画を撮影し、SNS上で公開する。

「前線で戦っているのはワグネルだ」

「モスクワの官僚は何も分かっていない」

「兵士が死んでいるのに弾薬を送らない」

こうした発言を繰り返し、国防省を公然と批判していった。
バフムートという「勝利」を手にしたことで、彼の発言力は一気に高まっていた。

一部の軍事ブロガーや民族主義者の間では「無能な国防省よりプリゴジンの方が有能だ」という声まで上がるようになった。

バフムートは単なる戦場ではなく、ロシア国内の権力構造を揺さぶり始める政治的事件でもあったのである。


「弾薬をよこせ」

2023年5月初旬。
プリゴジンとロシア国防省との対立を象徴する、一本の動画が公開された。

動画の中には、戦死したとされる多数のワグネル兵士の遺体。
その前でプリゴジンは激しく叫ぶ。

「弾薬はどこだ!」

「こいつらはお前たちのせいで死んだ!」

名指しされたのは、セルゲイ・ショイグ国防相ワレリー・ゲラシモフ参謀総長
民間軍事会社の指導者が、戦時中にロシア軍最高指導部を公然と非難したのである。

この対立の本質は弾薬問題ではなかった。

「誰がロシアを勝利へ導いたのか」という功績争いだったのである。

(4日、ロシア軍トップらを批判するプリゴジン。 引用元ワグネル、バフムート離脱を転換か 「弾薬を約束された」と創設者 – BBCニュース)


まとめ

2023年5月20日。
ロシア軍はバフムートを占領した。

しかし、その代償はあまりにも大きかった。

数万人規模の人的損失と膨大な弾薬消費。
そして正規軍とワグネルの対立。

何より「誰が勝利したのか」を巡る権力闘争。

この戦いによって、ロシア軍内部には目に見える亀裂が生まれていた。

そして、その亀裂はわずか1か月後、誰も予想しなかった形で爆発する。

次回予告

勝利による政治力の獲得、それはバフムートが生み出した最大の皮肉――それが次回に解説するプリゴジンの乱である。

参考資料・外部リンク

バフムート攻防戦・戦況分析

ワグネル・受刑者募集

ロシア側の人的損失

ウクライナ政府の発表・防衛判断

ソレダール・岩塩坑

西側諸国による主力戦車の供与

画像・地理資料

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